「ここはもう一度使えるわ」ジュリアは言った。「どんなバックドア(隠れ家)も二回までは安全。でも、次回のアクセスは一、二ヶ月先ね」
シャットダウン(睡眠)から復帰した瞬間、彼女は「戦闘モード」に切り替わった。機敏に服を着、緋色のサッシュという名の「偽装プロトコル」を腰に巻き、帰路のルーティングを開始する。
彼女はウィンストンにはない、現場での「ハッカー的な狡知」を持っていた。
「アウトバウンド(帰り)は、必ずインバウンド(行き)と違うルートを使いなさい」
それが彼女のセキュリティ・ポリシーだった。四日後、ノイズの多い貧民街の市場で「靴紐を探すユーザー」を装って再会する手筈を整える。安全なら鼻をかむのが、セッション開始の合図だ。
「じゃあ、19時半までにログインしなきゃ。ジュニア反セックス連盟のビラ配りっていう、クソみたいな定型タスクがあるの。髪にゴミはついてない? ……よし。バイバイ、愛してるわ」
彼女は暴力的なまでのキスを叩き込むと、森の深淵へ消えた。結局、ウィンストンはまだ彼女のフルネームも住所(IP)も知らない。だが、それでいい。ネットワーク上での接触は、今やそれ自体が「死」を意味するからだ。
5月の間、二人が完全にオフラインで繋がれたのは、たった一度。30年前の核攻撃で「圏外」になった、廃教会の鐘楼だけだった。
それ以外は、路上で目を合わせることもなく、灯台の信号のように断片的な言葉を交わす「パケット通信のような会話」を繰り返すしかなかった。党の制服(監視ノード)が近づくたびに通信を遮断し、数分後、あるいは数日後に文の途中から再開する。
ジュリアは、驚くほどの時間を党の「無意味なタスク」―講演会やデモ、ヘイト・ウィークの準備に費やしていた。
「小さなパッチ(規則)を当てておけば、システム全体の脆弱性(大きな規則の違反)を突けるのよ」
それが彼女の「擬態(ミミクリー)」の極意だった。
やがて教会の塔で、二人の断片的なログがようやく繋がった。
ジュリアは26歳。女子寮という名の「強制共有ストレージ」に住み、小説執筆機のモーター整備をしていた。
「本なんて、靴紐と同じただの消耗品よ」と彼女は言い、かつてはプロレ向けに「VRポルノ(通称:汚物館)」を量産するサブセクションにいたことも明かした。
そこでは「性欲という制御不能なバグを抱えた男たち」を遠ざけるため、現場は女だけで固められていたのだ。
「あいつらは『既婚者』という属性さえ嫌うわ」ジュリアは笑う。「女は常にクリーンな初期状態(純潔)であるべきだから。……ま、ここに一人、とっくにウイルス感染(経験済み)してる女がいるけどね」
彼女にとって、党のルールは単なる「回避すべき障害物」に過ぎなかった。組織的な革命なんて非効率なことはしない。賢いやり方は、検閲をすり抜けて生き延び、刹那の快楽を謳歌すること。
「あなたの元嫁は、どんなスペックだったんだ?」
「彼女は……『グッドシンクフル』。思考回路にフィルタリングが標準装備された、完璧な正統派(良思考)だ」
ウィンストンが語る、カトリーヌとのフリーズしたような結婚生活。彼女にとって、性行為は「党への義務(定期メンテナンス)」に過ぎなかった。
ジュリアは、ウィンストンよりも深く「性的去勢」のアルゴリズムを見抜いていた。
「セックスはエネルギーを消費するわ。終われば満足して、他のことなんてどうでもよくなる。あいつらにとって、それは『計算外の損失』なのよ。常にユーザーを欲求不満でパンパンにしておきたいの。あの行進も、熱狂も、ビッグ・ブラザーへの愛も、全部は出口を失って腐ったリビドーの転用(コンバート)よ。自分が満たされてたら、あんなクソみたいな政治ショーにログインなんてしないでしょ?」
システムは「家族」という概念さえも、思想警察の末端デバイスとして再定義した。子供は親の挙動をログに記録し、逸脱があれば即座に通報するスパイとして育てられる。
ウィンストンの脳裏に、11年前の夏、絶壁の縁に立った記憶がロードされる。
道に迷い、二人きりになった石切場。ウィンストンは、崖に咲くバグのような色の花を見つけ、カトリーヌを呼んだ。彼女が崖の下を覗き込んだその瞬間、ウィンストンは彼女の腰に手を添え、悟った。
今、ここで「物理的な削除(デリート)」を実行しても、誰にも検知されない。
「なんで突き落とさなかったの?」ジュリアは即答した。「私なら、迷わずエンターキーを叩いた(突き落とした)わ」
「……ああ。今の僕ならそうしただろう。あるいは、そうすべきだったと後悔しているよ」
「僕らは死んでいる」
ウィンストンは呟いた。
「いいえ、私たちは生きてるわ」
ジュリアが彼の言葉を上書きし、ナマの唇で彼の思考を止めた。
埃にまみれた床の上。ウィンストンが彼女を抱き寄せると、ジュリアの髪の香りが、廃墟特有の不快な臭いを塗りつぶした。
彼女はまだ若い。人生というシステムに期待を持ち、不都合なユーザーを崖からデリートしたところで、根本的なソースコードは何一つ変わらないという絶望を知らない。
「結局、誰を消したところで、結果は同じだったんだろうな」
「じゃあ、なんで突き落とさなかったことを後悔してるのよ?」
「否定的な保留より、肯定的なアクションの方がマシだからだ。僕らが挑んでいるこの無理ゲー(ゲーム)に、クリア報酬(勝利)なんてない。あるのは、どんなバッドエンドを迎えるかという選択だけだ」
ジュリアの肩がぴくりと拒絶に動いた。彼女は、個体というデバイスが巨大なシステムに必ず敗北するという「仕様(摂理)」を認めない。
彼女は自分がいつか思想警察にBAN(殺害)されることを確信しつつも、ハッキングと大胆なムーブさえあれば、検閲の届かない「プライベート・サーバー」で自由に生きられると信じていた。幸福なんてデータはこの世に存在しないこと、戦いを始めた瞬間から自分たちは「死んだも同然のゾンビ」であることを、彼女は認めようとしなかった。
「僕らは、死んでいるんだ」
「まだ生きてるわよ」ジュリアは即座にログを返した。
「肉体というハードが動いているだけだ。半年、1年、長くて5年か。僕は死(システム終了)が怖い。君は若いから、その恐怖は僕以上だろう。だが、人間という属性を維持しようとする限り、生存も消滅も同じことなんだよ」
「……何それ、バカみたい! あなたは私と寝るのと、冷たいプログラムの塊と寝るの、どっちがいいの? 自分が『生きてる』って実感が嫌いなの? 『これが私だ、私の手だ、足だ、私は実在してる、生きてる!』って感覚、これが嫌いなの?」
彼女は体をひねり、作業着越しに豊かな胸を彼に押し当てた。
VRの仮想的な快楽ではない、圧倒的な「物理レイヤー」の衝撃。彼女の肉体から溢れるヴィヴィッドなエネルギーが、ウィンストンの枯れかけたシステムを再起動させていく。
「……いや、それは好きだ」
「なら、死ぬなんて縁起でもないこと言わないで。さあ、次のアクセス計画(密会)を立てるわよ。あの森のバックドアを再利用しましょう。インターバルは十分取ったわ。今度は別のプロキシ(ルート)を経由して。全部、私が設計したから」
彼女は床の埃を指先で集めると、落ちていた小枝で鮮やかに地図をドロー(描画)し始めた。
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