ウィンストンの意識は、過負荷(オーバーワーク)でゼラチン状に溶けかかっていた。5日間で90時間の強制ログイン。真理省の全ユニットが、リソースを限界まで使い果たしていた。
「憎悪週間(ヘイト・ウィーク)」のピーク時、全サーバーに緊急パッチが当てられた。オセアニアの敵対勢力(エネミー)はユーラシアではなく、イーストアジアに変更された。ユーラシアは「ホワイトリスト(同盟)」入りだ。
仕様変更のアナウンスなどない。ただ、「敵は最初からイーストアジアだった」というログが、全ドメインへ同時に強制配信された。
広場の演説者は、手渡された「修正スクリプト(メモ)」を読み上げながら、構文(シンタックス)を崩すことなく、敵の名前だけをリアルタイムでリライトした。
「看板の画像(顔)が違う! 敵の工作員によるバグだ!」
ユーザー(群衆)は熱狂的に古いバナーを引き裂き、数分後には新しい敵に対するヘイト・スピーチが、正常なプロセスとして再開された。
あのシステム・ダウン寸前の混乱の中、正体不明のユーザーがウィンストンの肩を叩き、「デバイス(鞄)を落としましたよ」とあの『本』を転送(手渡し)してきた。
それから6日間、真理省は「全データの強制書き換え」というデスマーチに突入した。過去5年分のニュース、ログ、アーカイブ――すべてを光速で「最適化(改ざん)」し、ユーラシアとの戦争という履歴を物理的に抹消せねばならない。
ウィンストンは、自分が入力しているデータがすべて偽造であることに、何のバグ(罪悪感)も感じなかった。むしろ、その偽造を「仕様」として完璧にデプロイすることに、病的な快感を覚えていた。
6日目の朝、データの筒(シリンダー)が止まった。省内に、密かな、深い安堵のパケットが走った。誰にも語られない「歴史の抹消」という偉業が完了したのだ。今この瞬間、過去の履歴を証明できるドキュメントは、この世から完全にデリートされた。
ウィンストンは関節を悲鳴(ノイズ)させながら、オフライン・セクターへの階段を上った。システム疲労は限界だが、脳内の覚醒フラグは立ったままだ。
ジュリアがログインしてくるまで、手元にはこの「ソースコード」がある。
彼はヘタったアームチェアに沈み、デバイス(鞄)のプロテクト(ストラップ)を解除した。
タイトルもロゴもない、非公式なビルドを思わせる黒い装丁。フォントは不揃いで、多くのユーザーがアクセスした形跡(擦り切れ)がある。
トップディレクトリには、こう記述されていた。
寡頭制的集団主義の理論と実戦
エマニュエル・ゴールドスタイン 著
ウィンストンは「解析」を開始した。
第1セグメント:無知は力である
アーカイブされた全歴史において、おそらくは石器時代の終焉から、この世界には三つのユーザー階層が存在してきた。「管理者(High)」「中級ユーザー(Middle)」「一般ユーザー(Low)」だ。
名称やパラメーターは時代ごとに変動したが、社会の基本アーキテクチャ(構造)だけは決して変わらなかった。
どれほど巨大なシステム・クラッシュや大規模なアップデートが起きようとも、ジャイロスコープが常に中心に収束するように、同じ階層構造が常に再起動(リブート)されてきた。
これら三つの階層の目的は、完全にコンフリクト(相容れない)している――。
ウィンストンは一度、リーディングを中断した。
今、自分が「完全な暗号化(安全)」の状態でこのデータを読み込んでいるという、その「主権」を味わうためだ。監視カメラ(テレスクリーン)のパケットも、バックドアからの盗聴もない。
遠くから響くノイズ(子供の声)と、クロック周波数のような時計の音。
彼はチェアに深く身を預けた。それは至福の「私物化」であり、永遠のオフライン。
彼は、全データを精査することになる予感と共に、ランダムに第3セグメントをロードし、読み進めた。
「第3セグメント:戦争は平和である」:三つの巨大サーバーの均衡
20世紀半ばの予測通り、世界のトラフィックは三つの巨大サーバー(超大国)に集約された。「ユーラシア」「オセアニア」、そして「イーストアジア」。
これら三つのプラットフォームは過去25年間、恒常的な「攻撃状態(戦争)」にある。
だが、これはシステムを完全破壊するような全面核戦争ではない。互いにサーバーをダウンさせることはできず、奪い合うべきデータも、真の設計思想(イデオロギー)の差もない、限定的な負荷テストのようなものだ。
戦場は一般ユーザーにはアクセス不能な「辺境のデッドセクタ」や、海上の「浮遊ノード(要塞)」周辺に隔離されている。
一般ユーザーにとって、戦争とは「サービスの慢性的な遅延(物資不足)」と、稀に発生する「致命的なエラー(爆撃)」による数人のログアウト(死)を意味するに過ぎない。
この膠着状態が続く理由は、各サーバーの防御スタックが強固すぎるからだ。
ユーラシアは広大なメモリ領域(領土)、オセアニアは物理的なファイアウォール(海洋)、イーストアジアは圧倒的な処理ユニット数(人口)に守られている。
さらに、各経済圏が完全にクローズド(自給自足)になった今、市場の奪い合いという旧世代のバグは解消された。
現在の戦争の唯一の目的は「低コストな演算リソース(労働力)」の確保だ。特定の地理的四角形の中に住む地球人口の20%――彼らは奴隷的なデバイスとして、占領者が変わるたびに書き換えられ、兵器生産という名の「無駄な演算」に投入される。
彼らが生産した成果物が、世界のストレージ(富)を増やすことはない。生産されたリソースは、即座に戦争というプロセスで「消去(消費)」される。
戦争の真の目的は、社会システムを現状維持(サステナブル)にするための「リソースの強制廃棄」なのだ。
現代の「戦争」という名のプロセスの真の目的は、生活水準をアップデート(向上)させることなく、システムの余剰生産能力を「消去(消費)」することにある。
19世紀末からの工業化により、システムは「余剰物資」という名の巨大なログ(ゴミ)を抱え込むことになった。もしこのリソースを「ユーザーの快適さ」に全振りすれば、数世代で飢えや過労といったバグは修正できたはずだ。だが、富の均等な配信は、管理者(管理者階層)の特権を無効化(デリート)してしまう。
全ユーザーが余裕を持ち、安全に暮らせるようになれば、貧困という名の「処理落ち」から解放された大衆が自力で思考(パッチ作成)を始め、特権階級という名の「不要なプロセス」を終了させてしまうだろう。
つまり、階層構造(ヒエラルキー)を維持するには、ユーザーを常に「リソース不足と無知」の状態に固定しておく必要がある。
だが、単純な生産停止は軍事的な脆弱性を生む。そこで採用されたのが「恒常的な戦争状態」という最終プロトコルだ。
戦争とは、労働という名の演算資源を、大気圏外へパージするか深海へゴミ捨て(デリート)するための「強制終了コード」だ。ユーザーを賢くしてしまうはずのリソースを、誰にも文句を言わせない形で「浪費」させる。
「浮遊要塞(フローティング・フォートレス)」という巨大なゴミには、数千の商用アプリを組めるほどの工数がロックされている。それは一度も価値を生成することなく「レガシー(旧式)」として廃棄され、また膨大な工数をかけて新しいゴミが生産される。
この「慢性的なリソース不足」は戦略的な仕様だ。管理者専用の「プレミアム・アカウント(上級党員)」にのみ与えられる僅かなアドバンテージ――広い住居や質の高い嗜好品――を際立たせ、一般ユーザーとの「格差(ディスティンクション)」を絶対的なものにする。
同時に、戦争という「外圧(セキュリティ・リスク)」が、全権限を一部の特権階層(管理者)に集中させることを「生存のための必然」として正当化する。
管理者たちは、戦争がダミーのデータであることを理解しながらも、「二重思考(ダブルシンク)」によって、自らの勝利を狂信的にブート(起動)し続けるのだ。
管理職(インナー)たちは、いつか「最強のチートツール(新兵器)」で全サーバーを制圧できると信じている。だが、かつての科学的な「検証プロセス」は、党という名のセキュリティ・ポリシーによって禁じられた。今、この世界に「科学」という言葉はない。
現在の「開発者」の仕事は、ユーザーの表情や声から「本音(隠しデータ)」を抽出するソーシャル・エンジニアリングか、あるいは効率的にアカウントをBAN(殺戮)するための化学兵器開発に限定されている。
彼らは「地殻を貫くドリル」や「宇宙レーザー」といったSFじみた構想を練っているが、どれもデプロイ(実現)されることはない。
核兵器という最強のコマンドは1950年代から存在するが、それを使えば自分たちの「管理者権限」まで吹き飛ぶことを知っているため、事実上の使用禁止(凍結)状態にある。
結果、戦争というプロセスはここ40年、全くバージョンアップされていない「レガシーな仕様」のまま、ただのリソース消費イベントとして回されているだけだ。
三つの巨大サーバーが互いのメイン・ディレクトリ(本土)をハックしないのは、自社ユーザーの「隔離状態」を守るためだ。
もし一般ユーザーが他国のユーザーと通信(接触)すれば、「敵も自分と同じスペックの人間であり、運営の広報はすべてフェイクだ」というバグに気づいてしまう。そうなれば、統治の燃料が剥がれてしまう。
オセアニアの「イングソック」、ユーラシアの「ネオ・ボリシェヴィズム」、イーストアジアの「滅私」。
UI(名前)は違うが、ソースコードは同一だ。どれも同じピラミッド型の階層構造であり、永久戦争によってリソースを廃棄し続ける経済モデルだ。
三つの超大国は、互いにクラッシュさせることはできないし、させるメリットもない。彼らは三本の柱のように、寄り添って倒れ合うことで、「安定稼働」を維持しているのだ。
旧世代の戦争は、いつか「シャットダウン(終結)」が来る期間限定のイベントだった。そして、戦争はシステムを「物理的な現実」というハードウェアに同期させる唯一の手段でもあった。運営(支配層)がどれほどフェイクニュースを流そうとも、軍事的な「処理効率」を落とすバグ(幻想)を放置すれば、即座に他国にハック(征服)されたからだ。宗教や政治のレイヤーでは「2+2=5」という嘘が通っても、兵器開発のレイヤーでは「4」という正解を出さなければ、物理的に敗北した。
だが、戦争が「常駐プロセス(継続)」になった瞬間、そのセキュリティ・リスクは消滅した。全サーバーが征服不能(アンコンカラブル)になった今、もはや「効率」という概念すら不要になったのだ。この世界でまともに稼働しているプログラムは、思考警察という監視ツールだけだ。
外部のログからも、過去の履歴からも切り離されたユーザーは、上下の概念がない「無重力のデータ空間」を漂う亡霊のようなもの。管理者は、ユーザーを完全にクラッシュ(餓死)させない程度にリソースを配分し、ライバルと同じ程度の低い技術水準を保ちさえすれば、あとは現実(データ)を好きな形に改ざんできる。
今の戦争は、角の角度が固定されていて絶対に衝突できない動物のディスプレイ(虚偽)だ。だが、そのプロセスは「余剰リソースの廃棄」と「階層維持のための緊張状態」という、重要なバックグラウンド・タスクを担っている。
つまり、戦争とはもはや「自社サーバー内の内部処理」に過ぎないのだ。
各国の管理者は、もはや互いに攻撃し合っていない。戦争とは、各管理者が「自社のユーザー」に対して仕掛けているハックであり、その目的はシェアの拡大ではなく、社会構造という名の「アーキテクチャ」の固定にある。
「戦争」という言葉は、もはや正しい定義ではない。継続的になったことで、戦争は死んだのだ。もし三つの巨大サーバーが戦うのをやめ、互いのドメインに干渉しない「永久の平和」に合意したとしても、その結果は同じだ。外部からのハック(脅威)がない閉鎖された宇宙では、永久の平和は永久の戦争と等価値になる。これこそが、運営が掲げるスローガン「戦争は平和である」のソースコード(真意)なのだ。
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