ウィンストンは約束の時刻より早く、ヴィクトリー広場に降り立っていた。
広場の中央には、天高くそびえる巨大な石柱。その頂上では、かつてこの国の空をハッキングしようとした敵軍を撃退したとされる「ビッグ・ブラザー」の石像が、監視カメラのレンズのように四方を睨みつけている。
約束から5分。彼女が来ない。ウィンストンの脳内に「接続拒否(コネクション・タイムアウト)」の文字が点滅し、冷たい汗が背中を伝う。
その時、記念碑のふもとに彼女を見つけた。壁に貼られたプロパガンダのポスターを、まるで初めて見るかのような顔で眺めている。まだ近づけない。台座の周囲は、死角のない監視網(メッシュネットワーク)に覆われているからだ。
突如、左方から叫び声と、大型車両の爆音が押し寄せた。
群衆が一斉に「何か」を求めて走り出す。彼女はその濁流に迷わず飛び込んだ。ウィンストンも続いた。ユーラシア軍の捕虜を乗せたコンボイ(護送車)が通過しているのだ。
広場の南側は、すでに人の壁でブロックされていた。普段なら群衆を避けるウィンストンだが、この時ばかりは「人混み」という名の巨大なファイアウォールの内部へと、強引に肩をねじ込んだ。
巨漢のプロレの男と、その妻らしき女。ウィンストンは、その肉の重圧に内臓を圧迫されながらも、力ずくでその隙間をこじ開けた。
汗をにじませ、ついに彼女の真横へ滑り込む。
二人は肩を密着させ、視線を真っ直ぐ前方の「ノイズ」――護送される捕虜たちへと固定した。
通りをゆっくりと進むトラックの列。荷台の四隅には、サブマシンガンを構えた無機質な衛兵たちが直立している。その内側には、薄汚れた軍服を着用し、洗脳用VRヘッドギアをつけられた捕虜たちが、家畜のように詰め込まれていた。車両が揺れるたびに、彼らは意思のない声を挙げる。
ウィンストンは、自分の右腕全体に彼女の体温が「同期」していくのを感じた。頬に触れそうなほど近い。彼女は再び、この状況のコマンド権を握った。
周囲の喧騒と、重低音を響かせて通過する大型トレイラーのノイズにかき消されるほどの、極限までボリュームを絞った囁き声。
「聞こえる?」
「ああ」
「日曜の午後、オフ(非番)にできる?」
「ああ」
通りをゆっくりと進むトラックの列。荷台の上には、武装した衛兵に囲まれ、数十人の男たちが座らされていた。
彼らはかつての「捕虜」のように絶望に顔を歪めてはいない。全員が最新型のVRバイザーを装着し、口元には不気味なほどにうっとりとした微笑みを浮かべていた。
彼らの脳内には今、党が提供する「最高に甘美な偽りの記憶」がダイレクトに流し込まれている。
美味しい食事、美しい恋人、輝かしい栄光――。肉体はボロボロの作業着に包まれ、足元は電子制御の磁気錠で固定されているというのに、彼らの意識は「多幸感の牢獄」に幽閉されているのだ。
これこそが現代の処刑、「感覚の去勢」だった。
逆らう意志どころか、現実を認識する機能さえ奪われ、甘い麻薬のような信号(データ)を流され続ける廃人たちのパレード。
彼女の囁きが続く。
「じゃあ、一度で覚えて。パディントン駅へ行って――」
彼女が提示したルートは、軍用ナビのように正確だった。
「覚えた?」
「左、右、また左。横木のないゲートだ」
「15時。私は別ルートで入るから。絶対に忘れないで」
「ああ」
「なら、一刻も早く私から離れて」
離脱の直前。群衆の圧力に紛れて、彼女の手がウィンストンの手を探り当て、その掌を強く、短く握りしめた。
それは10秒にも満たない時間だったが、永遠のようにも感じられた。
二人は手を繋いだまま、肉の濁流の中で視線を前方へと固定し続けた。
ウィンストンの瞳の網膜に焼き付いていたのは、愛する女の瞳ではなく、最後尾のトラックでバイザーが外れ、真っ赤に充血した虚ろな目で「偽りの天国」から強制的に引き剥がされた老人の、絶望に満ちた瞳だった。
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