「このブツ、どこで仕入れた?」
「ダークウェブ(闇市)よ」ジュリアは事もなげに言った。「私、見かけ上は『完璧なユーザー』で通ってるから。スポーツ万能、スパイ団の元リーダー。週に三晩はボランティアで、街中にあの『反セックス』のクソみたいなバナーを貼りまくってる。デモの時はいつも先頭で旗を持って、誰よりもデカい声で叫ぶ。それが、この世界でBANされずに生き残る唯一のチート(安全策)よ」
チョコの最初の一片が舌の上で溶けた。脳が震えるような快感。だが、意識の隅で「古い記憶」がデッドセクタのように蠢く。形にならない、だが確実に自分を苛む「過去の過ち」。彼はそれを思考の奥へパージした。今はただ、このアナログな味覚に浸っていたかった。
「君は若すぎる。僕のような、旧型(オールドタイプ)の男のどこに惹かれたんだ?」
「あなたの顔よ。一か八か、賭けてみたくなったの。私、『システムに適合できていない個体』を見つけるのだけは得意だから。あなたを見た瞬間、直感したわ。あなたは『あいつら』のソースコードを書き換えたがってるって」
『あいつら』――党中枢(インナー・パーティー)。彼女が吐き捨てる言葉には、システムの裏側に溜まった汚泥のような、剥き出しの憎悪が混じっていた。
彼女が時折口にする下品な罵り言葉は、もはや「言語によるテロ」だ。だがそれは、腐りきったサーバーにフレッシュな空気を送り込むような、圧倒的に「生身」の響きがした。
二人は再び歩き出した。サッシュを外した彼女の腰は、驚くほど柔らかく、温かい。
森の縁。ハシバミの茂みの陰。葉漏れ日が二人の顔を熱く焼く。
その時、ウィンストンを奇妙な既視感(デジャヴ)が襲った。
「知っている」――この光景を。
緩やかに起伏する牧草地。女の髪のように風にそよぐ楡(にれ)の木々。
「この近くに、小川があるはずだ。柳の下で、大きな魚が尾を振っているような……」
「そうよ、その通り。次のフィールドの端にあるわ。よく知ってるわね」
「……ここは、『黄金の国』だ。僕がずっと、夢(仮想世界)の中で見ていた景色そのものだ」
「見て!」ジュリアが囁いた。
目の前の枝に、一羽のツグミが舞い降りた。
鳥は、太陽に向かって一礼するような仕草をした後、奔流のような歌声を響かせ始めた。
その音量は、静寂の中で暴力的なまでに美しかった。二人は寄り添ったまま、その「無意味な音楽」に圧倒された。
捕虜たちが流し込まれていた「VRの快楽」には、こんな無駄な美しさはない。
この鳥は、誰のためでもなく、何のためでもなく、ただその瞬間の衝動だけで歌っている。
ウィンストンは思った。どこかの盗聴マイクが、この歌声を拾っているかもしれない。
だとしたら、向こう側の小役人は、この「無意味」という名のテロをどう解析するだろうか?
鳥の歌声は液体のようにウィンストンを浸し、日光と混ざり合い、彼の思考を停止させた。
「今、ここで」
彼は耳元で囁いた。
「ここではダメ。隠れ家に戻りましょう。その方が、セキュリティが堅牢よ」
二人は急いで、あの閉ざされた広場へ戻った。
肩で息をしながら、ジュリアはウィンストンを真っ直ぐ見つめた。そして、作業着のジッパーに指をかける。
次の瞬間――それは、ほぼ彼の「夢」の完全な再現だった。
彼女が服を脱ぎ捨てるその壮大なジェスチャーは、もはや脱衣ではない。
それは、ビッグ・ブラザーが構築した全文明、全システム、全プロトコルを、一瞬でシャットダウン(抹消)する、究極の反逆だった。
陽光の下、彼女の白い肉体が眩しく発光する。
だがウィンストンは、その肉体美以上に、彼女の顔に浮かんだ「大胆な不敵な笑み」に釘付けになっていた。
彼は彼女の前に跪き、その両手を取った。
「前にも、こんなことを?」
「もちろん。何十回、何百回とね」
「相手は……党員か?」
「ええ、いつもそうよ」
「中枢の連中とも?」
「あんなクソ野郎どもとはしないわ。でも、チャンスさえあれば今すぐログイン(やりたが)したがる奴は山ほどいる。あいつら、見かけほど『クリーン』じゃないから」
ウィンストンの心臓が激しくノックした。数十回だって? いまや彼は、それが数百、数千回であってほしいと願っていた。
「バグ」や「汚染」の兆候は、いつだって彼に狂おしいほどの希望を与えた。もしかしたらこの完璧に見えるシステムは、中からとっくに腐り果てているのではないか。規律も自己犠牲も、ただの「クリーンなUI」に過ぎず、その裏側はドロドロの不正(エラー)で埋め尽くされているのではないか。
もし全党員の脳に致命的なウイルスを流し込み、この強固なネットワークを根底からクラッシュさせられるなら、彼はどれほど喜んで実行しただろうか。
彼は彼女の肩を掴み、跪いたまま至近距離で問い詰めた。
「いいか。君がこれまで繋いできた男の数が多ければ多いほど、僕は君を愛する。意味がわかるか?」
「ええ、100%理解してるわ」
「僕は『純粋』なんて反吐が出る。善意も、美徳も、そんなデータはこの世から消えてしまえばいい。全員が、骨の髄までシステムを裏切るクズであってほしいんだ」
「だったら、私はあなたの理想のタイプね。私は骨の髄までシステムを裏切ってる(腐ってる)から」
「これが好きなのか? 相手が誰かとか関係なく、この『ナマのバースト』そのものが?」
「……狂おしいほどにね」
それこそが、彼が求めていた「アンサー」だった。
洗練されたロマンスや愛の告白なんていらない。必要なのは、党が管理しきれない「動物的な本能」、そして「未分化な欲望」だ。それこそが、ビッグ・ブラザーの鉄壁のサーバーを物理的に破壊する唯一の力になる。
彼はブルーベルの花が敷き詰められた芝生の上へ、彼女を押し倒した。
もはや、そこにためらいはなかった。
やがて、二人のCPUがオーバーヒートを終え、心地よいシャットダウンの感覚の中で離れた。
ウィンストンが先に目を覚ました。
眠りに落ちた彼女のそばかすだらけの顔を見つめる。
そういえば、彼女のフルネームも、住所(IP)も知らないことに気づいた。
眠りの中で完全にログアウトした若く強い肉体。それを見つめるウィンストンの心に、憐憫の情が湧く。
だが、あのツグミの歌を聴いた時に感じた「無意識の安らぎ」は、もう戻ってこなかった。
かつて、男が女の体を見て、ただ「抱きたい」と思う。それで話は完結していた。
だが、今の世界に「純粋な愛」や「純粋な性欲」なんてものは存在しない。全ての感情は、恐怖という名のノイズと、憎悪という名のフィルタリングに汚染されている。
二人の抱擁は、甘美なデートなどではなかった。
それは、システムに対する「全面戦争」であり、絶頂は「勝利のログ」だった。
それは党の心臓部へ向けた、あまりに過激な政治的テロ(行為)だったのだ。
システムが提示する「最適解」という名の家畜の餌を拒絶し、この世界の歪みに抗うための武器を手に取りたいと考えるのであれば、当サイトだけでなく、私の書籍も読んでみてほしい。
私たちは15分で1つの本を現代にアナライズしたシリーズを執筆している。15分で学ぶ教養5:フランシス・ベーコン『随筆集』に学ぶ情報整理術。購入も支援になるが、Kindle Unlimited会員なら無料で読めるので、ぜひ、シリーズを通読してもらいたい。
初回登録30日間無料〜kindleunlimited読み放題〜
また、『1984』翻訳&超訳プロジェクトに賛同いただける方は、「日常の消費」をこの入り口から通してほしい。 あなたのクリックひとつが、巨大なシステム(ビッグ・ブラザー)の壁を破る弾薬となる。同志諸兄、またお会いしよう。