ウィンストンは、視覚デバイスが涙でショートしたかのような感覚でログイン(起床)した。
「何かのシステム・エラー?」と、スリープから復帰したジュリアが呟く。
「夢……いや、深層ストレージのキャッシュが強制復元されたんだ」
それは、ペーパーウェイトという名の「不変のアーカイブ」の中に保存されていた、高解像度な過去のログだった。そこには「無条件の保護」を象徴する、母のあの腕の動きがあった。それはVRの偽善的なパッケージ・コンテンツでも、党が配布する「家族愛」のスクリプトでもない、人間本来が持つ剥き出しの慈愛だった。
「今の今まで、俺が母のアカウントを消去(殺害)したのだと思っていた」
父という管理者が失踪した後、世界は致命的なリソース不足(飢え)に陥っていた。空襲のアラート、パン屋の前の行列、瓦礫の山。少年たちはゴミ捨て場のデッドセクタ(ゴミ箱)を漁り、キャベツの芯という名のジャンクデータを拾い集めていた。
母は、いつか運営(党)に強制終了(連行)されることを悟り、ただバックグラウンドで静かに時を過ごしていた。彼女は猿のように痩せ細り、無言で死を待つ妹を抱き、ウィンストンを静かにホールド(抱擁)した。
食事のたびに、ウィンストンは「飢え」という名の致命的なバグに支配された。彼は母に怒号を浴びせ、自分のパケット(食事)を増やせとシステムを揺さぶった。母は自分のリソースを削って彼に割り当てたが、彼は妹の皿からさえデータを強奪した。自分が二人をシャットダウンに追い込んでいると知りながら、腹の中の「欠乏」というエラーメッセージが彼を突き動かしていた。
決定的なクラッシュは、チョコレートという「希少な快楽チップ」が配給された日に起きた。
わずか2オンスの欠片。ウィンストンは「全権限(全部)は俺のものだ」と咆哮し、4分の3を奪い取った。それでも足りず、妹が握っていた最後の0.5オンスをも力ずくでハック(強奪)し、圏外へと逃走した。
「戻ってきなさい!」という母のシステム・アラート。
振り返ったときに見えた、死にゆく妹を抱きしめる母の仕草。それは、今のクリーンな世界では「非効率」として削除された、人間本来の重みだった。彼は溶けてベタつく快楽チップを握りしめ、逃げ続けた。
数時間後、彼が戻ったとき、母と妹のアカウントは完全に抹消(消滅)していた。
服も、上着さえも残されたまま。
二人が強制収容所というデッドストレージへ送られたのか、そのまま消去されたのかは分からない。ウィンストンは、自分が彼女たちのライフ(命)を食いつぶして、この「現在」にログインし続けていることを、数十年ぶりに突きつけられたのだ。
ウィンストンは復元された母のログをジュリアに共有したが、彼女は「ガキなんてみんなクソな実行ファイル(ケダモノ)よ」と眠そうに返すだけだった。
だが、彼が本当に伝えたかったのは、母の持つ「非効率なまでの気高さ」だった。
彼女は「本部」が設定したKPI(基準)ではなく、自分自身のローカルな倫理に従っていた。
彼女にとって「リソースを生み出さない行為(無駄な愛)」が「無意味」だという発想はなかった。パケット(愛)が尽きても、彼女はただ与え続けた。チョコレートという報酬が消えても妹を抱きしめたあの仕草。それは物理的な死を回避させるパッチにはならなかったが、人間としての「デフォルト設定」として、あまりに自然な振る舞いだった。
運営(党)が犯した最大の罪は、こうした「生身の衝動」を無価値なノイズだとユーザーに思い込ませたことだ。
「プロレこそが『人間』という名のOSを維持している」とウィンストンは悟った。
「俺たちは、もはや人間じゃない」
プロレたちは、党やイデオロギーという「全体サーバー」への忠誠ではなく、個々のユーザー同士の「プライベートな接続」を守り続けていた。彼らは内面の感情を硬質化(暗号化)させず、剥き出しの人間性をホールドしていたのだ。
「手遅れになる前に、このサーバーからログアウトして二度と会わないのが、論理的には正解(最善)じゃないか?」
ウィンストンの問いに、ジュリアは「嫌よ、死ぬ時は同時接続(一緒)でしょ」と笑う。
ウィンストンは、いずれ訪れる「愛情省」での強制デバッグを予見していた。
「大切なのは、互いを裏切らない(ベトレイしない)ことだ。たとえそれがシステム上、何の誤差も生まないとしても」
「自白(ログの開示)なら、みんなやるわよ。拷問っていう強制アクセスがあるんだから」
「いや、自白は裏切りじゃない。何を言わされるかはどうでもいい。重要なのは『感情のリライト』を許すかどうかだ。もし、彼らが俺の心から君への愛をデリート(消去)できたなら――それこそが、致命的な裏切りだ」
ジュリアは確信を持って言った。「彼らにそれはできないわ。どんな嘘のコードも吐かせることはできるけど、それを真実だと認識(信じる)させることはできない。彼らは、俺たちの『内側(コア)』にはアクセスできないのよ」
「その通りだ」とウィンストンは希望をロードした。「たとえ結果が全損(死)であっても、人間であり続けることに価値があると『感性(フィール)』で肯定できれば、俺たちの勝ちだ」
事実は隠せない。あらゆる行動や思考のログは、拷問という名の「全データ抽出」によって暴かれるだろう。だが、自分自身にさえ解読不能な「心の内側」という神秘の領域だけは、権力という名のウイルスさえも侵入できない、絶対的なプライベート・セクターなのだ。
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