【超訳】1984|第2部 第8章|上位階級の聖域とノイズレスな世界

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ついに、ついに彼らは実行した。
案内された部屋は、ノイズを完全に遮断した「低周波の静寂」に満たされていた。テレスクリーンの通知音は最小限のハミングにまで抑えられ、深い紺色のカーペットは足音を完全に吸収する。
部屋の奥、緑色のライティングの下で、オブライエンは膨大なデータ・ログ(書類)の海に沈んでいた。使用人が二人をログイン(案内)させた時、彼は視線すら動かさなかった。

ウィンストンの心臓は過負荷でパンクしそうだった。この「管理者専用エリア」に足を踏み入れることは、一般ユーザー(アウター)にとって、もはや物理的な恐怖だった。
アパート全体に漂う、高純度の快楽(食事と煙草)の香り。音もなく遷移する高速エレベーター。白ジャケットを纏った専属NPC(使用人)たちの無駄のない動き。すべてが、彼らが普段享受している「安物の便利さ」とは次元の違う、磨き抜かれた特権だった。
壁紙には人の接触による「汚れ(ノイズ)」すら一切ない。物理的な接触が不要なほど、この場所は最適化され、洗浄されている。

オブライエンは指先のデータを解析するように、じっと一点を見つめていた。その表情は、システムの全容を把握するプログラマーの冷徹さと、圧倒的な知力を湛えていた。
沈黙の後、彼は音声入力(スピークライト)に向かって、インナー・パーティー専用の「圧縮言語(プロトコル)」でコマンドを吐き出した。

「セグメント1、5、7、フル承認。セグメント6は致命的な脆弱性(馬鹿げた提案)あり。思想犯(クリムシンク)の検知レベル。ビルド停止。インフラコストの再見積もりが出るまでデプロイは許可しない。以上」

オブライエンは椅子から立ち上がり、足音を消した静寂のカーペットを横切ってきた。圧縮言語(ニュースピーク)を止めた彼は、少しだけ「運営側」の仮面を外したように見えたが、その表情は「未承認の割り込み」を拒絶するように冷徹だった。

ウィンストンの脳内には、恐怖と共に「致命的な推測ミス」への不安が走り始めた。
彼が反逆者(ハッカー)だというエビデンスなど、ただの視覚的同期(視線の交錯)一回きり。あとは自分の妄想という名の非公式パッチに過ぎない。ジュリアを連れている以上、「辞書のアップデート(借用)」というダミーの言い訳も成立しない。

オブライエンがテレスクリーンの前を通ったとき、ふと「接続」を断ち切るように壁のスイッチを叩いた。鋭い破裂音。
監視ログの音声が、唐突にデッド(沈黙)した。

ジュリアが小さな悲鳴を上げた。ウィンストンもまた、あまりの衝撃に「不可侵のルール」を忘れて叫んだ。

「オフライン(消去)にできるのか!」
「ああ」オブライエンは静かに言った。「我々(管理者)は通信を遮断できる。それがこの階層の特権(プライオリティ)だ」

彼は二人の前に立ちふさがった。その存在感は圧倒的で、表情のソースコードは読み取れない。彼はウィンストンが「最初のコマンド」を打ち込むのを待っていた。テレスクリーンが消えた後の部屋には、絶対的な「圏外」の静寂が支配していた。
秒刻みが、巨大なパケットのように重く過ぎていく。ウィンストンは必死にオブライエンの視線に同期し続けた。

不意に、その冷徹な顔に微笑という名の「許可証」が浮かんだ。彼は眼鏡をリセット(かけ直し)し、問いかけた。

「私がログを読み上げるか、それとも君が送信(発言)するか?」
「俺が言います」ウィンストンは食い気味に応答した。「……本当に、その『監視』は死んでいるのか?」
「そうだ。完全にオフラインだ。ここには俺たちしかいない」
「俺たちがここへ来たのは――」

ウィンストンは、自分のリクエスト(動機)がひどく曖昧であることに気づき、処理落ちしそうになった。オブライエンに何を望むのか、自分でも定義できていなかったからだ。彼は、自分の言葉が脆弱なスクリプトのように響くのを自覚しながら、通信を続けた。

「俺たちは、システムに反抗する秘密のノード(組織)が存在し、あんたがその中心にいると確信している。俺たちをそのクラスタに入れてくれ。俺たちは運営(党)の敵だ。イングソックの仕様を拒絶する。俺たちは思考犯であり、非推奨な関係(姦通)も結んでいる。これを明かすのは、全権限(身の振り方)をあんたに委ねたいからだ」

そこへ、ノックなしで使用人のマーティンがエントリー(入室)してきた。彼はデキャンタとグラスを運んでいた。
「マーティンも、このプライベート・サーバー(組織)のメンバーだ」オブライエンは無機質に言った。「さあ、座ってオフラインの対話をしよう。マーティン、君もログインしろ。これは業務だ。次の10分間、NPC(使用人)のロールプレイは不要だ」

オブライエンはデキャンタを傾け、グラスに深いルビー色の液体を注いだ。ウィンストンの脳内アーカイブには、かつて見た古い電飾バナーの記憶がフラッシュバックした。

「これは『ワイン』というヴィンテージ・データだ」オブライエンは薄く笑った。「テキストデータでは知っているだろうが、一般ユーザー階層には決して配信されないパケットだ」
彼は表情を「厳粛」にリセットし、グラスを持ち上げた。
「まずは、この乾杯から同期(スタート)しよう。俺たちのリーダー、エマニュエル・ゴールドスタインに」

ウィンストンは、ついに手に入れた「過去の遺物」を喉に流し込んだ。それはペーパーウェイトと同様、彼が「古き良き時代」という隠しフォルダに保存していた憧れそのものだった。
彼はワインを、最高級のエナジードリンク(ビクトリー・エナジー)よりも甘美で、即座に脳をハックするドラッグのようなものだと想像していた。
だが、現実は残酷だった。長年、偽物の「低解像度な快楽」で感覚を摩耗させてきた彼の舌にとって、その味はあまりに薄く、期待外れのノイズにしか感じられなかった。

「ゴールドスタインというIDは実在するのか?」
「ああ、生きたアカウントだ。サーバーの場所は不明だがな」
「『兄弟団(ブラザーフッド)』も実在するのか? 運営が仕掛けたハニーポット(罠)ではないのか?」
「本物だ。だが君たちが知るべきは、そのネットワークが存在し、自分がそのノード(一員)であるということだけだ」
オブライエンは時間をチェックした。
「ルート権限(特権)を行使してテレスクリーンを遮断できるのは、長くても30分だ。これ以上の『圏外』はリスクになる。君たちは別々にログアウト(退出)しろ」
彼はジュリアを「同志」と呼び、会釈した。
「残り20分。君たちの覚悟をテストする。このシステムを瓦解させるために、どこまで自分を『汚染(ウイルス化)』できるか」

「実行可能なすべてのコマンドを受け入れる」ウィンストンは答えた。
オブライエンは椅子を回し、ウィンストンに同期(フォーカス)した。ジュリアの意思は彼に統合されていると見なしたようだ。彼は、定型化されたセットアップ・ウィザードのように、低く無機質な声で問い始めた。

「命を捨てて、データを消去される覚悟はあるか?」
「ある」
「暗殺(物理的排除)を実行する覚悟はあるか?」
「ある」
「数百人の無実なユーザーを巻き込むクラッシュ(破壊工作)を仕掛ける覚悟はあるか?」
「ある」
「外部サーバー(外国)に機密を流す覚悟はあるか?」
「ある」
「詐欺、改ざん、脅迫、子供たちの教育プログラムへのウイルス混入、薬物依存の拡散、性病の蔓延――システムの安定を損なうためなら、どんな『非道なコード』でも書く覚悟はあるか?」
「ある」
「例えば、戦略上の利得のために、子供の顔に硫酸をぶっかけるような残虐なタスクも遂行できるか?」
「できる」
「今のプロファイルを捨て、一生を低スペックな労働者(NPC)として過ごす覚悟はあるか?」
「ある」
「命令があれば、即座に自分のプロセスを強制終了(自殺)できるか?」
「できる」
「君たち二人が、互いの接続を完全に断ち、二度とアクセスしない覚悟はあるか?」

「嫌よ!(NO)」ジュリアが割り込み、通信を遮断した。
ウィンストンが応答を返すまで、サーバーがフリーズしたような沈黙があった。口が動くが、出力すべきデータが定まらない。
「……いや(NO)」彼は最後に、その言葉をパケットとして吐き出した。

「正直に言ってくれて助かるよ。こちらには全ログが必要だからな」
オブライエンはジュリアに向き直り、少しだけ解像度を上げた声で警告した。
「たとえ生き延びても、彼は『別のパッチを当てられた別人』になる。顔も、動きも、声も外科的にリライトされ、時には身体の一部をデリート(切断)することもある。君自身もだ」
ウィンストンは使用人マーティンの顔をスキャンしたが、目に見えるバグ(傷)はなかった。ジュリアは青ざめながらも、その「仕様変更」を承諾した。
「よし。これで合意(コミット)された」

テーブルには銀色のシガレットケース。オブライエンは心ここにあらずといった風にそれをスライドさせ、一本手に取ると、処理速度を上げるかのように歩き始めた。その煙草は、一般層が吸う安物とは次元が違う、シルクのような手触りのハイエンド・パケット(嗜好品)だった。彼は再びデバイス(時計)を確認した。

「マーティン、自分の『使用人』というロールに戻れ」と彼は命じた。「15分後にはシステム(テレスクリーン)をオンラインに復帰させる。今のうちに、この同志たちの顔データをスキャンしておけ。お前はまた会うだろうが、俺は二度と会わないかもしれないからな」
マーティンの黒い瞳が、二人の顔を無機質にスキャンした。友愛(フレンドシップ)の気配はゼロ。彼はただの「記録媒体」として外見を記憶し、人間的な興味は一切持っていないようだった。ウィンストンは、あいつの顔はリライト不能な「静止画」なんじゃないかとさえ思った。マーティンは一言も発さず、ノイズレスにログアウト(退出)した。

「いいか、これからは『暗闇』の中での戦闘だ。常に圏外にいろ」オブライエンは煙草を燻らせながら言った。「君たちは命令をダウンロードし、実行する。理由(ソースコード)を知る必要はない。後で、一冊の本『真理のバイブル』を届ける。そこには、このOSの真の仕様と、それをクラッシュさせるためのハック・戦略が書かれている。それを読み終えたとき、君たちは正式なメンバーとして承認(アプルーブ)される」

「だが、最終目標と目の前のタスクの関連性を君たちが知ることは一生ない。組織(兄弟団)は実在するが、その規模が100アカウントなのか、1000万アカウントなのか、俺は教えないし、君たちも知る術はない。個人的に接触できるのは、せいぜい12人以下のマイナーなノードだけだ。接点(コンタクト)は3、4人に限定され、彼らが消滅(デリート)するたびに、新しいノードに更新される。今回の俺との接続は例外として残すがな。命令は俺から、連絡はマーティン経由。最終的に捕まれば、君たちは全ログを吐く(自白する)。それはシステムの仕様上、避けられない。だが、吐き出せるのは自分の行動ログだけで、裏切れるのは数人の無価値なノードだけだ。おそらく、俺を裏切ることすらできない。その時、俺は既にデリートされているか、別のプロファイルを持つ別人になっているからだ」

オブライエンは音のないカーペットを、驚くほどスムーズに回遊していた。その巨躯から放たれるムーブは、洗練された「管理者の優雅さ」そのものだった。
暗殺、強制終了(自殺)、データの切断や改ざんといったエグいタスクを語りながらも、彼のトーンにはどこか「皮肉」という名の余裕が混じっていた。「これはシステムの整合性を保つための不可避な処理だ。だが、人生というOSが正常に動作するようになった未来では、こんなパッチは不要になる」。彼の挙動はそうログを残しているようだった。

ウィンストンは、目の前の「最強の管理者」に圧倒され、心酔した。この強固な肩、無骨だがインテリジェンスの塊のような顔。こいつが敗北(ダウン)することなど想像もできない。どんなハックも、どんな脆弱性も、彼なら先回りして処理してしまう。

「君たちは『兄弟団』を、地下の物理サーバーに集まってチャットを飛ばし合うような、旧世代のギルドだと思っているのか? そんな甘い構造(アーキテクチャ)は存在しない」オブライエンは断言した。
「メンバー同士のID認証機能(識別)はない。トップであるゴールドスタインですら、全ユーザーのDB(名簿)は持っていない。名簿という概念自体、このシステムには実装されていないからだ」

「兄弟団は、通常の『組織』というディレクトリにはない。全ノードを繋いでいるのは、破壊不能な『思想』という名のコア・ロジックだけだ。君たちを維持するリソースは、そのロジックしかない。仲間とのチャット(励まし)もなければ、運営による救済もない。俺たちは決してメンバーをリカバリしない。どうしても『情報のリーク』を止める必要がある時に、強制終了用のスクリプト(剃刀の刃)を送り込むのが限界だ」

「君たちは、『結果の出ないルーチン』に耐えなければならない。しばらくコードを書き、検知(パージ)され、全ログを吐き出し、そして削除(デリート)される。それが君たちの全ライフサイクルだ。俺たちが生きている間に、バージョンアップ(変化)が起きる確率はゼロだ。俺たちは『デッド・ストック(死者)』なんだ。俺たちの本番環境(生)は、はるか未来にある。データ上のチリとなって、その時代にマージされるんだ。それが1000年後のデプロイになるかもしれない。今できるのは、正気という名の『非汚染エリア』をビット単位で広げることだけだ。集団での同期(アクション)は不可能だ。個から個へ、世代から世代へ。思考警察というファイアウォールを突破するには、この地道な拡散以外にルートはない」

オブライエンは三度、デバイス(時計)をスキャンした。
「そろそろログアウト(退出)の時間だ、同志(ジュリア)」彼はデキャンタの残りをグラスに注ぎ、持ち上げた。
「次は、どんなフラグ(目標)に乾杯する? 思考警察のシステムダウンか? ビッグ・ブラザーのアカウント消去か? ヒューマニティか? 未来か?」
「『過去(アーカイブ)』に」ウィンストンが応じる。
「過去の方が優先度(プライオリティ)が高いな」オブライエンは深く頷いた。

グラスを空け、ジュリアが席を立つ。オブライエンは口臭を消すためのパッチ(錠剤)を彼女に渡した。エレベーターの管理NPC(係員)の監視ログを侮ってはいけない。彼女がドアを閉めた瞬間、オブライエンの意識から彼女のプロセスは完全に削除(消去)されたようだった。

「細部をフィックス(決定)しよう。独自のプライベート・サーバー(隠れ家)はあるか?」
ウィンストンは、チャリントン氏の店の上の「オフライン・セクター」を報告した。
「今はそこでいい。拠点は頻繁にローテーション(変更)すべきだが、追って手配しよう。さて、例の『本』――ゴールドスタインのソースコードを最優先でデプロイ(送付)する。現存する物理コピーは少ないが、たとえ全データが消失しても、我々はそれをビット単位で完全復元できる。その意志(コード)は難攻不落だ」

「普段のデバイス用バッグ(ブリーフケース)の形状は?」
「黒の、かなり型落ちした、二本ベルトの安物です」
「黒、二本ベルト、見窄らしい――了解。近いうちに、朝の業務パケットにバグ(誤植)を混ぜる。君はエラー報告(再送要求)を送れ。その翌日、君はデバイスを持たずに外出しろ。路上で男が『落とし物だ』と声をかけてくる。彼から受け取るバッグの中に、本という名の物理パケットが格納されている。14日以内に返却(アップロード)しろ」

二人は沈黙した。通信終了まで、あとわずか。
「残り数分か」オブライエンが言った。「俺たちはまた同期(再会)するだろう――もし、再接続が可能であればの話だがな……」

ウィンストンは彼を見上げた。「あの……『ダークモード(暗闇)のないセクター』で会える、ということですか?」
オブライエンは無表情に頷いた。「ああ、光(正気)だけが支配する場所でな」
彼はその隠語(メタファー)を既に知っているようだった。「さて、ログアウトする前に伝えておきたいステータスや、未解決のクエリ(質問)はあるか?」

ウィンストンは思考を巡らせた。これ以上、組織の仕様について訊く必要も、立派なマニュアルのような綺麗事を並べる必要も感じなかった。代わりに脳内をフラッシュバックしたのは、母の最期のログ、チャリントン氏の店にあるオフラインの聖域、不変のペーパーウェイト、そして古い鋼版画。
彼はなかばランダムに、その「古いコード」を投げかけた。
「『オレンジとレモン、とセント・クレメンツの鐘が鳴る』……という古いわらべ歌のパッチを、ご存知ですか?」

オブライエンは再び頷いた。そして「管理者」としての重厚な礼儀正しさをもって、その未完成だったテキストデータを補完した。

「オレンジとレモン、とセント・クレメンツの鐘が鳴る、
三ファージングの借りだ、とセント・マーティンズの鐘が鳴る、
いつ決済するんだ? とオールド・ベイリーの鐘が鳴る、
資産家(リッチ)になったらな、とショーディッチの鐘が鳴る」

「最後の一行まで同期(インプット)されていたとは!」ウィンストンは驚愕した。
「ああ、知っているさ。さて、セッション終了だ。待て、君のキャッシュ(匂い)もこの錠剤でクリアしておけ」

ウィンストンが立ち上がると、オブライエンが手を差し出した。その圧倒的な握力(グリップ)は、ウィンストンの手の平の骨を軋ませるほど強固だった。
ドア際でウィンストンは振り返ったが、オブライエンは既に彼のプロセスを終了(キル)し、次のタスクへと意識を移しているようだった。彼はテレスクリーンの再起動(リブート)スイッチに手をかけ、待機していた。
ランプに照らされたデスク、音声入力機、書類の山。
この通信は終わった。30秒後、オブライエンは再び「党(システム)の維持」という、彼にとって最も重要で冷徹なルーチンへと戻っていく。ウィンストンにはその未来が、はっきりとログを見るように予見できた。

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