その瞬間、心臓がフリーズし、内臓が水のように崩れた。10メートル先を、青い作業着の人影が接近していた。創作局の、あの黒髪の女だ。視認性は落ちていたが、個体識別は容易だった。彼女はウィンストンを真正面からスキャンし、そのまま未検知を装って通り過ぎた。
数秒間、ウィンストンはシステムダウンしたかのように動けなかった。それから右に転進したが、逆方向に進んでいることにさえ気づかなかった。一つだけ確定した。あの女が自分を監視(スパイ)していることに疑いはない。彼女はここまで追跡してきたのだ。隔離された居住区から数キロ離れた裏通りで、同じタイミングで遭遇するなど、確率論的にあり得ない。彼女が思想警察の公式エージェントか、単なるアマチュアのスパイかは問題ではない。彼女が自分をマークしている、それだけでチェックメイトだった。
歩行そのものが重い負荷となった。ポケットのガラスが腿を叩き、それを破棄したい衝動に駆られる。腹部には激しいエラー(痛み)が発生した。トイレという名の処理施設に到達しなければシャットダウンしてしまうという感覚。だが、このエリアに公衆の施設など存在しない。やがて痙攣は収まり、鈍い痛みがバックグラウンドに残った。
通りは行き止まりだった。ウィンストンは立ち止まり、最適解を求めて数秒フリーズしたが、やがて反転して元のルートを辿り始めた。彼女を追跡し、静かな場所で頭蓋骨を物理的に破壊するという攻撃オプションが脳裏をよぎった。ポケットのガラスの塊は、武器として十分な質量がある。だが、彼はその案を即座に破棄した。物理的なリソースを割くこと自体が、もはや耐え難かったからだ。彼は走ることも、攻撃することもできない。
コミュニティ・センターに逃げ込み、偽のアリバイ(ログ)を生成することも考えたが、それも不可能だった。致死的な倦怠感がシステムを支配していた。ただ早くホームディレクトリに戻り、静止していたかった。
22時過ぎ、自室へ帰還。23時30分にはメイン電源が遮断される。彼は「ビクトリー・エナジー」をカップ一杯分飲み干し、アルコーブのデスクで日記を取り出した。だが、即座に書き始めることはできなかった。テレ画面から愛国歌のノイズが鳴り響く。彼はその音声をミュートしようと試みたが、意識から排除することはできなかった。
執行(パージ)が行われるのは、常に深夜だ。拘束される前にプロセスを強制終了(自殺)するのが唯一の回避策だった。実際、多くの失踪者は自殺だった。だが、即効性のある毒薬も武器も入手不可能なこの世界で、自ら死を選択するには、絶望的なほどの勇気が必要だった。
ウィンストンは、ハードウェア(肉体)の致命的な不具合を痛感していた。痛みや恐怖というエラー信号はいかなる問題も解決せず、最も高い処理能力を必要とする瞬間に限って、システムをフリーズ(静止)させる。もし即座にコマンドを実行していれば、あの黒髪の女という脅威を排除できたはずだが、リスクが最大化したことで、彼は実行権限そのものを喪失していた。
危機の際、ユーザーが対峙するのは外部の敵ではない。常に自分自身の「物理デバイス」だ。エナジードリンクのブーストをもってしても、腹部の低レベルなエラー(鈍痛)が論理的思考を阻害する。戦場、尋問室、沈没船。あらゆる極限状態で、人は高次の目的(イデオロギー)を忘却する。肉体という負荷がメモリを占領し、人生は空腹、寒冷、睡眠不足、あるいは歯痛といった、些末なハードウェアトラブルとの泥沼の戦いへと退行するのだ。
彼は日記というを開いた。断片でもいい、データを残すことが重要だった。テレ画面からは新たなノイズ(歌)が流れ、鋭利な破片のように脳の回路を刺激する。彼はこのログの想定受信者であるオブライエンを想起しようとしたが、思考は強制的に「検挙後のルーチン」へとリダイレクトされた。即時のシャットダウン(死)は許容範囲だ。だが、その前には必ず「整合性チェック」というプロセスが待っている。床を這い、慈悲を乞うスクリプトを叫ばされ、物理的に破壊されていくプロセスだ。
最終的な死が確定しているなら、なぜこの冗長な苦痛に耐えねばならないのか? 数週間という不要な稼働時間を、なぜ削除できないのか? 誰も検知(デテクト)を逃れられず、誰も告白を回避できない。思想犯罪という不正コードが検出された時点で、終了期限はセットされている。ならば、何も書き換えられない「恐怖」という名のバグが、なぜ未来のタイムラインに組み込まれているのか。
彼はオブライエンの残像を再構築した。「暗闇のない場所で会おう」。その意味を彼は理解していた。それは決してログインすることのできない、しかし予見によって神秘的に同期可能な、次世代のプロトコル(未来)のことだ。
だが、テレ画面のノイズが思考の連鎖を分断する。彼はタバコを口にしたが、劣悪なコンテンツ(葉)が舌の上で苦い塵となった。オブライエンのイメージは上書きされ、管理者ビッグ・ブラザーの顔がポップアップした。数日前と同様に、彼は硬貨という物理メディアを取り出し、そこにある「顔」をスキャンした。重厚で、静かで、守護者のようなUI。だが、その黒い髭の裏側で、システムはどのような「微笑」を隠蔽しているのか?
鉛のように重いシステム警告音が、彼の脳内に響き渡った。
戦争は平和である
自由は隷属である
無知は力である
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【解説】ウィンストンが感じたのは、絶望的なまでの「肉体の制約」だ。恐怖というバグは思考をフリーズさせ、腹痛という些末なエラーが反逆の意志を上書きする。党という巨大システムに挑む高次の目的は、物理デバイス(肉体)の不具合によって無慈悲に退行させられる。オブライエンという未来のプロトコルへの同期を試みても、最後にはビッグ・ブラザーという強固なUIが思考を支配する。個人の主権は、常に内なるハードウェアの欠陥に敗北するのだ。