もはやこれは物理演算の問題だ。どうやって彼女と接触し、秘密の回線(ミーティング)を繋ぐか。罠かもしれないという疑念は、ゴミ箱に捨てた。あの時、メモを渡してきた彼女の指先は、システムエラーを起こしたように震えていたからだ。彼女もまた、自分の存在を賭けて「送信」してきたのだ。
拒絶なんて選択肢は、1ビットも存在しない。数日前、彼女の頭蓋骨を石で叩き割る妄想をしていたことなんて、今となっては重要じゃない。ウィンストンの脳内メモリは、彼女の白い肌、若々しい肉体、あの夢で見た光景で溢れかえっていた。
「どうせ中身は党のプロパガンダで埋まった量産型だろ」なんて偏見も消えた。今、彼を支配しているのは、一刻も早くレスポンスを返さなければ、彼女という「唯一の希望」が指の間から漏れて消えてしまうという、焦燥のウイルスだった。
だが、リアルでの接触コストは高すぎる。チェックメイトされた盤面で、強制的に一歩を踏み出すようなものだ。どこを向いても、監視カメラがこちらの視線をログに残そうと待ち構えている。
彼は、考えられる全てのルートを、ハッキングの脆弱性を探るように検証した。
省内で接触を繰り返すのは「フラグ」が立ちすぎる。彼女の所属する小説局のフロア構成も知らないし、そこへ行く正当な権限(パーミッション)もない。退勤後に待ち伏せるにしても、省の玄関前でうろつけば、即座に不審者として「検知」される。メール? 冗談だろ。全てのパケットは中央サーバーで開封され、フィルタリングされている。
結論は一つ。「社員食堂」だ。
そこが唯一、ノイズ(話し声)に紛れて、カメラの解析をかいくぐれる「デッドスポット」になる可能性がある。条件は、彼女が一人で座り、周囲に十分な「雑音」があり、かつカメラの画角から外れていること。その「30秒の隙間」を突くしかない。
それからの1週間は、バグった悪夢のようだった。
翌日、彼女は退勤間際まで現れず、ようやくすれ違っても互いに「完全無視」を貫くしかなかった。その翌日は、彼女の周りに3人も同僚がいて、おまけにカメラの真正面だった。
それから3日間、彼女は完全に「オフライン」になった。
ウィンストンの心身は、オーバーヒート寸前のサーバーのように過敏になっていた。誰かの話し声、椅子を引く音、些細な会話さえもが、剥き出しの神経を逆なでするノイズとして突き刺さる。仕事だけが、自分を「無」にできる唯一の冷却期間だった。
消去(デリート)されたのか? 自殺か? 遠くの支部へ飛ばされたのか?
あるいは――彼女が「送信取り消し」を選び、自分を避けているのか。
その翌日、彼女が再ログインしてきた。腕の吊り包帯は取れ、手首に申し訳程度のサポーターが巻かれている。彼女の姿を視界に入れた瞬間、安堵のあまり、ウィンストンは数秒間彼女を「直視」するという、致命的なミスを犯しそうになった。
翌々日、ついにチャンスが来た。
彼女が壁際のカメラから離れたテーブルに、一人で座っている。
ウィンストンはトレイを抱え、彼女のテーブルを目指した。あと2秒で届く――。
「スミス!」
背後から、名前をコールされた。無視しようとしたが、2度目のコールはさらにデカかった。ウィルシャーという、面識のない金髪のバカな男が、空席から笑顔で手招きしている。
ここで拒絶すれば、「不自然な挙動」として記録される。一人で座っている女の席へ行く理由が説明できない。ウィンストンは、親愛の情を模したスマイルを顔面に貼り付け、その席に座った。ウィルシャーのバカ面を眺めながら、ウィンストンは心の中で、手近なツルハシをその顔面の中央にフルスイングするイメージを描いていた。
次の日。彼は誰よりも早く食堂へ滑り込んだ。
彼女は昨日と同じ場所に、一人でいた。
だが、彼のすぐ前には、甲虫のような不気味な小男が並んでいた。トレイを受け取ったその小男が、真っ先に彼女のテーブルへ向かうのが見えた。
終わった。そう思った瞬間、凄まじい「クラッシュ音」が響いた。
小男が派手にスライディングし、トレイが宙を舞い、床にスープの川が流れた。
小男が呪詛を吐きながらウィンストンを睨みつけたが、知ったことか。
5秒後、ウィンストンは激しくノックする心臓を無視して、彼女の向かいに座っていた。
彼は彼女を見ない。即座に食事(粗悪なインゲン豆のスープ)を開始した。
誰かが来る前に、パケットを交換しなければならない。
「もし彼女の気が変わっていたら?」
恐怖がよぎる。アンプルフォースという名の、耳に毛の生えた詩人が座る場所を探してうろついている。猶予は60秒。二人は顔を伏せたまま、スプーンを口に運ぶ合間に、無機質な声で「データ」を交換した。
「退勤は?」
「18時30分」
「場所は?」
「ヴィクトリー広場、モニュメントの近く」
「カメラだらけだぞ」
「人混みに紛れれば、トラフィックが多すぎて解析できない」
「合図は?」
「いらない。大勢の中にいる私を確認するまで近づかないで。私を見ないで。ただ、近くにいて」
「時間は?」
「19時」
「了解」
アンプルフォースは彼らに気づかず、別のテーブルへ流れていった。
二人はそれ以上、一言も交わさなかった。
向かい合った二人の人間が、これほどまでに互いを「視界から消去」しようとしたことはないだろう。彼女が先に立ち去り、ウィンストンは一人残り、安タバコの煙とともに、残った震えを飲み込んだ。
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