第6章
ウィンストンの日記は、三年前の「規約違反(バグ)」を記録していた。
駅裏の非推奨エリア。厚塗りのメイクをした女。党の公式UI(ノーメイク)とは対極にある、仮面のような白粉。
ウィンストンは吐き気に耐えながら、当時の記憶をロードしようとする。内面のストレスが表情に現れる「表情犯(フェイスクライム)」のリスク、そして寝言という名の「無意識のログ漏れ」への恐怖。
党が目指しているのは、性行為から「快楽(UX)」を完全に削除することだ。
恋愛やエロティシズムはシステムの安定を乱す「敵」と見なされる。結婚は「党への貢献(出産)」というタスクをこなすための共同プロジェクトに過ぎない。性交は、メンテナンス用の「不快なバッチ処理」と同じレベルまで貶められていた。
ウィンストンは元妻キャサリンを回想する。
彼女の脳内ストレージには、党から配信されたスローガン(定型文)しか入っていなかった。ウィンストンが彼女に触れると、彼女の身体は「拒絶」のスクリプトを作動させたように硬直した。
彼女にとって性交は、カレンダーに設定された「週に一度のルーチン・ワーク」だった。彼女はそれを「党への義務」と呼び、システムへの忠実なログを刻もうとしたのだ。
日記のペンが震える。
「彼女はベッドに横たわり、一切の情緒をスキップして、最も低俗なプロシージャ(手順)で自らを晒した。私は――」
ウィンストンは、自身の記憶という名の「破損した動画データ」を再生し続けていた。
地下の暗がり、低解像度な環境。彼は光源(ランプ)を、横たわる対象に向けた。
そこで「レンダリング・エラー」が起きたのではない。隠されていた「真実のテクスチャ」が露わになったのだ。
鮮やかなフィルター(厚化粧)の下に隠されていたのは、若々しいアバターなどではなかった。歯を失い、深い皺が刻まれた、老朽化した肉体。
ウィンストンは激しい拒絶反応(エラー)を覚えたが、同時に、もうどうでもいいという虚無的な承認ボタンを押した。
彼は、その老婆を抱いた。
日記という非公開ログに、彼はこの「最悪のユーザー体験(UX)」を記録した。
なぜこんな不快なデータを保存したのか?
それは、党というシステムが「本能」を汚染し、人間の営みを「ただの排泄」へとダウングレードさせたことへの、必死のバグ報告(抗議)だった。
システムが「清潔で無機質な義務」を強要するなら、彼は「不潔で人間的な罪」を選ぶ。たとえそれが、老婆の肉体という名の、救いようのない絶望であったとしても。
ウィンストンの脳内に、唯一の解決策(ソリューション)が浮かぶ。
「プロレという未開発の領域にしか、システムの外部への出口(希望)はない」
だが、その出口の先で彼が手にしたのは、あまりにも惨めで、救いようのない「偽りの自由」の残骸だった。
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