子育てにおける「親の在り方」を、植物の生存戦略になぞらえて考えてきた。
前編では、親が良かれと思い先回りしすぎることが、いかに子の才能を溺死させるかを。 後編では、過酷な環境下で茎から自ら根を出す「不定根」の強さと、アドラー心理学における「課題の分離」について解説した。
教育の正解は「至れり尽くせりの環境」を提供することではなく、親が作ったプランターを壊し、子が自らの意思で大地へと根を張るのを見守ることだと考える。
もちろん、育苗(いくびょう)時期にはたっぷり甘えさせることが大切なのは、言うまでもない。
私が、なぜこのような考えに至ったのか。その「生臭い事実」は、公式noteを参照してもらいたい。
[▶︎ 公式note:【エピローグ】テレビをぶっ壊した息子を、私は抱きしめて諭した]
ここからはnoteで語った実際の子育ての現場を、私の言葉で綴りたい。
療育のリアル
彼は、顔もかわいくて愛嬌がある子どもだった。しかし、保育園へ通ううちにオムツが取れない、言葉の出が遅いと指摘されるように。彼の母はいち早く彼の特性に気づき、保健センターと連携して彼の知能などの診断を受けた。つまり、彼は母親の気づきによって今の人生を歩んでいる。
子育ては砂時計の砂を一粒ずつ数えるくらい、成果が見えづらいものだと今では思う。彼が少年だった頃の危うさは、今の立派な姿からは想像もつかない。
今、療育を受けようか悩んでいる人には声を大にして言いたい。不安があれば、自分だけでなく、第三者を介して公平に見てもらったほうがいい。
基本的に親は子どもに甘い。「うちの子は違う」「気のせいだ」と見逃してしまう。あなたが親として何らかの違和感を覚えたときはすぐに誰かに頼ろう。しかも、身内でなく第三者がいい。
テレビをぶっ壊した日
これは小学3年生くらいだったと記憶している。留守番していた彼はゲームをしていたはずだが、帰ってくると、テレビが消えていてなぜか大人しい。
違和感を覚えたものの、とりあえずテレビを点けようと電源ボタンを押したところ、画面が映らない。良く見ると割れている。何があったか彼に優しく聞いてみた。すると、ゲームをしていて腹が立ってコントローラーを投げた。
私はブチギレそうになったが、「お前が怪我しなくてよかった、モノは直したり買い替えたりできる。人だったら治らないかもしれないし、取り返しがつかないことにもなるかもしれないだろ?」と伝えた。それ以来、日本製のテレビなんて怖くて買えなくなった。
思い返せば、たくさんの失敗と叱責をしてきた。今はもう思い出せない。だが、彼が大人として立派に生きているのなら、選択肢を間違えずに来られたのだろう。私はそう信じたい。
当たり前の日常は当たり前じゃない
そんな彼も、今は立派に成人し、上場企業に勤めている。毎日仕事終わりに友達と出かけては、きちんと仕事に行く。大人になっても昔と変わらず、困ったらはにかんでしまうし、大切なことほど先延ばしにして困っている。
しかし、彼も今となっては大人だ。今度は子どもではなく、人生の主権者になろうと懸命に生きている。
まだまだ見守る必要はあるが、テレビを壊した日や、教室の片隅で泣いていた日を知っている私からすれば、立派な大人になったと感慨深い。
結びに変えて伝えたい。思わず、子育てについてパーソナルな自分語りになってしまったが、お許しいただきたい。
子育ては選択の連続だと私は考える。注意したいのはここまでのコラムで解説したように、親の型に嵌めようとしないことだ。「彼は彼、私は私」。そう思うと少しは気が楽になるのではないだろうか。
親子といっても一生懸命言っても伝わらないときはあるし、自分を責めすぎないでもらいたい。私は子育てを先に終えた先輩として、あなた方をそっと応援している。