「削った無駄」は「命」そのもの
「複製技術によって複製されたものにアウラ(一回性、その場にしかない雰囲気や権威)が失われる」
-ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』より-
10分の動画を5分で観る。その節約された5分で、あなたはまた別の「誰かが作ったコンテンツ」を消費する。これを自由と呼ぶのなら、これほど滑稽な話はない。
あなたは、プラットフォームの滞在時間を最大化させるための「処理エンジン」として飼い慣らされている。あなたが「自分の意志」で選んだ時短は、システムがあなたをより効率的に搾取するための、あらかじめ用意されたレールに過ぎないのだ。
倍速動画に死ぬ間際まで思い出せる景色はあるのか
情報の高速処理は経験の質を捨てることと同じ意味がある。物語の重みは消え、脳内では一回性の感動が失われていく。
記憶は薄っぺらなインデックスとなり、死ぬ間際に思い出すべき光景すら、倍速で流れて消える。
かつてヴァルター・ベンヤミンは、複製技術によって芸術の「一回性(アウラ)」が失われると説いた。
現代のタイパ主義は、その刃をあなたの「人生そのもの」に向けている。一回性の感動を効率という名の装置で切り刻むとき、そこに残るのは血の通わない情報の残骸だけだ。
一期一会の出逢い、夏の日の冷たい湧水の喉越し、街の喧騒……。現代では実感よりも、Youtubeなどのコンテンツから想起することが多い体験。
あなたがいつも積み上げていると思い込んでいるのは「経験」ではなく、ただの「既読フラグ」である。最後の瞬間に振り返るあなたのアルバムには、解像度の低いサムネイルしか並んでいないだろう。
「便利な処理装置」という名の鎖
タイパ重視は自己をツールへ貶める行為だ。人間性の核である退屈や逡巡をコストとして排除したとき、あなたは自由を失う。自尊心は効率に縛られ、飼い主のいない檻の中で処理速度だけを誇る空虚な機械と化す。
「結論から話せ」「要点だけ教えてくれ」。そう口にするたび、あなたは自分自身の「対話」を殺している。他者との間に生まれる予測不能なズレや、目的のない沈黙こそが人間が存在していることの証拠である。
しかし、現代人はそれを「ノイズ」として排除しがちだ。その結果、あなたの内側には、アルゴリズムが予測可能な「平均値」しか残っていないことが日常になっているかもしれない。
そのとき、あなたはシステムにとって代替可能な、ただの「機能」に成り下がっているだろう。
主体を持った人間であるために
現代において、システムへの抵抗は無意味かもしれない。思考を外部化し、自分という「ノイズ」を消し去るべきだ。システムへの依存に安らぎを見出し、自分が何者でもなくなったことすら気づかぬまま、心地よい虚無に呑み込まれる。それがタイパの目的だ。
すべての判断を検索結果やAIの回答に委ね、自分の心臓の鼓動すら効率化を目指せばいい。そうすれば、自分が死んでいることにすら気づかずに済む。それこそが「タイパ」が示す救いなのだから。
しかし、自分が主体を持った人間であることにこだわるのであれば、時には無駄を愛し、回り道をし、青い空を眺める時間を味わう。
一期一会のこの瞬間にはスマホも検索結果もAIもなく、ただ、流れゆく街や他人、空を愛でる時間を持ってみてはどうだろう。
参考・引用書籍:ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』